No.254 (*`Д´)家族との思い出の味(´Д`*) より
- 234 :もぐもぐ名無しさん :03/08/14 20:32
- スレ違いかもしれんが・・・
中三の冬に母が逝ってしまった。
でも、何故か知らないけど全然涙が出なかった。
親父や婆ちゃんはわんわん泣いてたけど。
母が逝ってから初めてのクリスマス、俺はテレビ見ながら飯食ってた。
親父は飲み会で、兄は何度目かの家出で、独りで黙々と食ってた。
そうしているうちにボロボロ涙が出てきた。
去年までは豪華な食事が出て、でっかいケーキを家族で分け合って、
みんなつまらん事でゲラゲラ笑って。
もう二度と戻ってこねえんだなって思いながら泣いた。
親父はあんまり料理が上手くなかったけれど、精一杯作ってくれた豪勢な
料理がすごく有難かった。
飲み会が終わり、真っ赤な顔で帰宅した親父に「飯うまかったよ」と
言ったら、「そうか、そうか・・・」と、本当に嬉しそうに何度も頷いた。
それから俺は自分の部屋に戻り、また暫く泣いた。
二度と戻らないなら、もう一度作り上げればいい。
あれから十年近く経つけど、クリスマスの度にあのしょっぱかった
料理を思い出す。
親父が再婚するって話を聞いて、ふと思い出して書いてみた。
迷惑掛けまくってスマンね。これからは幸せに、長生きしてください。
- 246 :もぐもぐ名無しさん :03/08/17 01:14
- 俺の家族が事故で逝ってしまった。
これからどうやって生活しようとか思ってるうちに腹も減って心身ぼろぼろで
フラフラと何も考えずに川に飛び込んじまったっけ。
公衆の面前だったから直ぐに救出されたけど、その時助けてくれた親父。
ずぶ濡れの俺を店まで運んで着替えよこしてチャーハンご馳走してくれた。
ありがたくって涙が出たな。
その後も俺が高校卒業するまで面倒見てくれた親父とおばさんと美奈子姉。
まるで俺に実の家族みたいに優しく接してくれた。
高卒して大学出て今はもう一人で暮らして最愛の人とも暮らしてる。
親父もおばさんも死んじまったけど、あの時食べたチャーハンの味だけは忘れない。
天国で本当の俺の家族とも元気でやってくれよな、親父、おばさん・・・。
- 137 :もぐもぐ名無しさん :03/07/17 21:49
- 僕が小学校の頃の夏の暑い日、母、弟と東武線で1時間程かけて父と待ち合わせた浅草の駅へ。
Yシャツ姿で颯爽と歩く父の後を付いていきながら行った、どぜう屋。
店の名前なんて最初から知らないけど、そこで食べた柳川鍋が忘れられない美味しさだった。
まだ、仕事の気の抜けきっていない雰囲気の父と、夕時の喧騒、2階席の窓は開いていて扇風機。
ビールを頼む父親はとても頼りになる存在に見えた。特別な外食でした。
- 260 :ぼるしち :03/08/17 20:52
- 俺とMは中学生の同級生。
昔はそんな話さなかったけど、ある日仕事絡みのひょんなことで再会した。
仕事の話もそこそこに綺麗になったMに思い切って「飲みに行かない?」って
誘ってみた。Mは快くOKし、その夜を境に俺たちは付き合い始めた。
そして1週間後、Mの誕生日に料理の好きな俺は腕をふるってイタ飯を作った。
Mは満面の笑みで「おいしい〜!」といってくれた。
Mは、「私ボルシチ作れるんだよ。今度時間があるときに作ってあげる」と
ボルシチを食べたことのない俺に約束した。
俺は「毎日お前の料理が食べたい」と真剣に求愛した。
そして俺たちは平成10年10月10日、晴れて夫婦になった。
結婚してしばらくで、俺の会社が大変なことになり、その他いろいろな
原因で俺たちは別居、平成13年10月10日正式に離婚した。
いまだにボルシチは食べたことがない。
多分一生 食べることがないだろう。
- 266 :もぐもぐ名無しさん :03/08/18 03:17
- みんなの感動した・・・私のも書いてみる。文下手だけどごめん。
私はこの春高校を卒業した。
中学校から高校までの6年間一貫教育だったから、
6年間共に過ごした友達ともお別れだった。
私には中1の時からずっと仲のよかった子が3人いて、
6年間の学校生活で、辛い時も、楽しいときも、いつも誰かが私の傍にいてくれた。
8時半になると登校して、笑ったり、愚痴いったりしながら3時になると学校から下校する、
そんな生活が一生続くのだと、卒業式の前日まで、心のどこかで信じていた。
卒業式当日。
涙は出なかった。友達は、いつも通り楽しそうに私に笑いかけて来てくれた。
私も、いつも通り他愛もないことで大騒ぎして笑っていた。
他人ごとのように卒業式も終わり、謝恩会も終わっていった。
謝恩会の会場のホテルから出てきたら、きれいな夕焼けになっていた。
私達4人は、なにかでまた笑いながら、仲良く坂道を並んで歩いていた。
4人は春から、それぞれ違う大学に行くことがきまっていて、
4人で、この制服を着てそろって歩くのはこれが最後っていうことが、そのころからどんどん私の心に沁みてきて、
笑いながら私は泣いてしまった。
その時、1人の友達が、めそめそ泣いている私に渡してくれたのが、クッキー。
「卒業祝いに、焼いたの」
といいながら、3人に笑って渡してくれた。
坂の途中で皆でもそもそ食べたあのクッキー、甘くてどんな料理よりもおいしかった。
坂からはきれいな夕焼けと、夜に沈もうとする東京の街が見えていた。
私達がそうしているころ、会場の近くのアメリカ大使館ではイラク戦のために緊張状態が続いていたし、
会場のあったホテルの上層階では、一人の社長が人生に失望して自殺してた。
だけど、あのころの私達は、そんな暗い世の中とは全く無縁だった。
友達の差し出してくれたクッキーと、その背後の夕焼け、4人で歩いた坂道。
クッキーを食べると、必ず思い出す。
- 306 :もぐもぐ名無しさん :03/08/26 16:01
- 母は弟を産んだあと体を壊し、半年ぐらい入院していた。
私は2歳で、当然のことながら誰か昼間世話をする者が必要で
田舎から祖母が上京し、私の面倒と家事、生まれたばかりの弟の面倒を見てくれていた。
その頃の記憶はあまりないんだけど、一つだけ鮮明に覚えている。
祖母に作って欲しいとねだったときの事を。
母がよく作ってくれたキャベツの味噌汁が飲みたかったのだ。
しかし、2歳の私はキャベツの味噌汁だという事を祖母に旨く伝えられずに
葉っぱが入ってるお味噌汁が飲みたいんだと頑強に言い張った。
葉っぱとは何の事かわからず、困った祖母が作ってくれたのは
白菜の入った味噌汁だった。
「これじゃない、こんなヘンな葉っぱじゃない!」
キャベツのあま〜い味噌汁=母の味だったんだろう。
味噌汁の中の白菜を見たとき、母だったらちゃんとわかってくれるのに、
ワンワン泣いて祖母を困らせた。
今祖母は他界し、母はそのときの祖母の年齢を越え寝たきりに。
わたしの作った味噌汁を少しづつ飲ませながら、思い出す。
甘くなかった白菜の味噌汁の味。
- 321 :もぐもぐ名無しさん :03/08/31 15:04
- 季節は秋だったでしょうか。
ある晴れた日曜日の朝、父が珍しく「遊園地に行こうか」と
小学生だった私たちを誘いました。
日々すれ違いが多く、週末も家を空けることが多かった父が
そんなこと言ってくるのは初めてで、驚きながらも心弾ませながら、
準備をしたのを覚えています。
今でこそ様々なテーマパークがバブルの残骸の様になって
ありますが、私が幼い頃行っていた遊園地は、
古く寂れた、それでいて、ちょっとムードのあるところでした。
コーヒーカップやジェットコースター、びっくりハウスなど、
父母妹、弟と私の5人で一通りアトラクションを楽しんだあと、
敷地内の御茶屋で一休み。みたらし団子を頼んで食べました。
こんがり焼いたお団子に、子供にはたまらないあの甘辛タレ、
おいしかったなあ。いつもはかまってくれない父が、
お茶をついでくれたり、口をふいてくれたり、
「串、喉にさすなよ」って心配してくれるのも嬉しかった。
でも、夕暮れと私の心がシンクロしたのか、それとも
いつもと違う父を不吉に感じたのか、なぜか寂しくもありました。
ピンクのアスファルトに家族5人の長い影がうつっていました。
その夜、両親は離婚届に判をおしたそうです。
両親の離婚以来父には会っていませんが、みたらし団子を
食べる度、あの日の父を思い出します。
そしてもう、2度と揃うことのない
5つの影法師のことがふっと頭を過ぎります。
- 711 :もぐもぐ名無しさん :04/01/28 17:51
- 大学のとき、田舎から親父が仕事で出てきたが、僕はなんだか
親父と歩くのが嫌で、終始不機嫌に離れて歩きアパートへ。
ほとんど会話もなく、お互い缶ビール1本だけので就寝。
翌朝、「何食う?」と尋ねたらたら「生卵」。僕は、フライパンで
入り卵を作って食べ、、親父はごはんと生卵だけ。そして仕事へ。僕は道案内。
親父は途中、体調悪そうだった。上野駅で、その後の乗り換えが不安そうな
親父を見送った。この1日半、ほとんど会話はなかった。
2ヶ月後、親父はくも膜下出血で倒れた。半日ががりで駆けつけた。
涙が吹き出た。「何も泣くことはないだろう?」と親父が言ったが、その
まま意識不明に。僕と認識していただろうか?
そのまま意識はもどらず2週間後、心臓が停止した。
あれから十数年、いまならもっとうまいもの食わせて、酒も飲ませて
やれるのにと思う。なぜあの時、老いた父に、もっと明るく優しくでき
なかっただろうかと思う。家は貧乏で、親父が大事な田ぼを売った金で大学に
行けていたのに。
卵かけごはんは、僕にとって悲しい食べ物になった。
- 101 :もぐもぐ名無しさん :03/07/07 17:03
- 結構みんな悲惨なモノ食わされてたんだなぁって思った俺は
幸せ者だったのだろうか。勿論、貧乏には変わりないリーマン
兼業農家だったのだが・・。
ただ、6人家族で両親共働きだから、祖母が作るご飯ばかり
だったので休みの時に母親が作ってくれる洋風モノは楽しみ
だった。ま、カレー・シチュー程度なんだけどね。
何時の間にか6人から祖父死5・祖母死4・母死3と人数が減って
俺は一人暮らし・・・その後、結婚して2・3・4と再び家族が
増えて行く様は一応輪廻しているのかと、さて晩飯までには帰るか。
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